2020年4月27日の『国民10万人がガチ投票!戦国武将総選挙』では、国民10万人が選んだ「一番好きな戦国武将」TOP30が発表されました。
この記事では、戦国武将ベスト10~1位までをまとめます!
2023年放送のQさまで発表された、時代を変えた戦国武将BEST10は、こちらでまとめています↓
第10位 石田三成
近江(滋賀)の石田三成(1560~1600 享年41)は、豊臣秀吉の右腕として仕えました。
頭脳明晰で、官僚的な立場から豊臣政権の基盤を作った三成。
関ケ原の戦いでは、あと一歩のところで徳川軍に敗北してしまいます。
真面目で誠実な人柄で、私利私欲がない人だったそうです。
当時国ごとに決められていた1尺の長さの違いを利用し、年貢の不正をする国が多かったのですが、三成が1尺の長さを統一し税金の不正をなくしました。
第9位 明智光秀
日本最大のクーデターを起こした明智光秀(生誕不明~1582)は、岐阜県・滋賀県・京都府で高い得票数を集めました。
光秀が治めていた京都府福知山では、とても愛されているようです。
織田信長の家臣として仕え、京都の近くに城下町を築きました。
ところが天下統一目前の信長を暗殺し、本能寺の変から13日後に豊臣秀吉に討たれました。
最初は室町幕府将軍・足利義昭との通訳や、礼儀作法を信長に教える役として採用された明智光秀。
今で言えば、派遣社員が副社長まで昇りつめたといったイメージだそうです。
ミステリアスな部分が多く、享年55とも67とも言われています。
福知山城には明智光秀家中軍法(細かな決まりを記した軍法)が残されており、「陣地では大声や雑談をしてはいけない」「武器については置き場所を定めている通りにする」ことなどが記されています。
いち早く鉄砲時代に対応した軍法を設定していました。
また本能寺の変の1年前、信長に見いだされここまでになったという心情も記していたそうです。
信長を討った理由には色々な説がありますが、本当の理由はわからないままです。
滋賀県西教寺には光秀の妻の墓もありますが、戦で亡くなった部下を供養するために書かれた光秀直筆の供養米寄進状も残っています。
書面には最下層の武士にも同じ量の米を寄進したことが書かれていました。
信長は1571年比叡山焼き討ちで僧侶や女子供まで3000人以上を殺していますが、その実行部隊として戦ったのが明智光秀でした。
のちに光秀は、焼き討ちしたお寺(西教寺)を3年かけ再建しました。
光秀の地元では、遺骨が400年以上守り続けられています。
第8位 黒田官兵衛
豊臣秀吉の天下統一を支えた黒田官兵衛。
官兵衛は47回戦をして、1度も敗れたことがないと言います。
しかも敵を説得して降伏させ、兵を損失しないよう努めたそうです。
本能寺の変の際には、諸大名が明智側につかないように「信長は助かったと書状で伝えるべき」と秀吉に提言し、明智光秀を孤立させました。
ところが官兵衛の頭の良さに秀吉が警戒していることに気づくと、すぐに隠居して『如水』(水のように野望もないという意味)と名を変え暮らします。
官兵衛の子孫が保管する菊一文字(刀)は、官兵衛が足利義昭将軍から拝領したもの。
以前鑑定してもらったところ、400万円の価値があると言われたそうです。
第7位 武田信玄
地元山梨では1位の得票数を獲得した武田信玄(1521~1573 享年53)。
戦に強いだけでなく、地形を変えて山梨県を洪水から守ったことでも知られています。
信玄堤は武田信玄が山梨県に20~30年かけて築いた堤防で、甲府盆地に水があふれでないようにしたそうです。
第6位 豊臣秀吉
大阪で2位に輝いた豊臣秀吉(1537~1598 享年62)が、6位にランクイン。
織田信長に仕え、大出世した秀吉。
本能寺の変の後明智光秀を倒し、たった8年で天下統一を果たします。
秀吉のスゴイところ① 黄金の城を築城して、戦わずして勝つ!
秀吉は家康の周りの城6か所に、金を施したそうです。
『城を黄金にする=財力が十分にある』
となり、これを見た家康は戦いを挑まず従い続けたのでは?と言われています。
秀吉のスゴイところ② 豊臣の名を与え反逆を封じた
秀吉は敵対していた戦国大名に、自分の名前を与えたそうです。
それぞれを家族のように扱うことで反逆を封じ、自分の地位を安泰にしたと言われています。
第5位 徳川家康
徳川家康(1543~1616 享年74)は湿地帯だった江戸の町を治水することで豊かな街に変え、約260年もの間戦争のない時代を作りました。
これほど長い間戦争のない世を作ったのは、世界史でも類を見ない功績だそうです。
その血は現在19代目の徳川家広さん(徳川記念財団 副理事長)まで、脈々と続いています。
第4位 真田信繁(幸村)
第4位は徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めた、真田信繁(幸村)(1567~1615 享年49)です。
大河ドラマ『真田丸』の主人公にもなった幸村は、大坂冬の陣で出城『真田丸』を築き、徳川軍に応戦したことで知られています。
劣勢の中引き分けに持ち込み、大坂夏の陣では徳川家康をあと一歩まで追い詰め、『日本一の兵(ひのもといちのつわもの)』と呼ばれるまでになりました。
大坂夏の陣の後、仙台伊達家に保護された子供の子孫が13代まで続いています。
真田幸村と言えば赤い甲冑のイメージが強いですが、仙台真田家にはサビ色(黒)の甲冑が保存されていました。
十文字の槍も印象にありますが、実際残されているのは殺傷能力の高い一本槍でした。
第3位 伊達政宗
第3位は仙台(宮城)を治めた伊達政宗(1567~1636 享年70)です。
仙台では地元の英雄・誇りと大人気でした。
18歳で伊達家を継ぎ、東北で勢力を拡大。『独眼竜』でもおなじみの武将です。
天下統一目前の豊臣秀吉からも、目をかけられていました。
自己アピール力に優れており、瑞巌寺というお寺には黄金の部屋を作ったと言われています。
黄金の襖はなんと161枚!伊達家の力と権威をアピールするために作られました。
『上段の間』は藩主の座の後ろに火頭窓が設けられており、後光が差し込んで見えるようにしたそうです。
仙台城には黄金の障壁画が施され、天皇をお迎えする部屋として『上々段の間』も設けられていました。
第2位 上杉謙信
第2位は地元新潟県・山形県では第1位に輝いた上杉謙信(1530~1578 享年49)です。
織田信長、武田信玄と同時期に、現在の新潟県・越後を治めていた上杉謙信。
武田信玄とは10年にわたり5度も戦いましたが、決着がつきませんでした。
また破竹の勢いで織田軍を手取川の戦いで撃破。
生涯ほぼ負けなしの武将でした。
兵士の7割が農民だった時代、大将自ら敵陣に突っ込み、家臣の士気を高めたと言われています。
部下を守るために武具を改良し、鉄砲から兵を守る防具『車傘』を開発。
鉄砲の弾が当たっても、回転して跳ね返るように作られています。
また一汁一菜が当たり前だった戦国時代に、出陣前の兵士には刺身をはじめとする豪華な食事を振る舞ったと言われています。
第1位 織田信長
第1位に輝いたのは、全国39の都道府県で1位を獲得した織田信長(1534~1582 享年49)でした。
変化を恐れない新しいもの好きなところが、人気を集めているようです。
鉄砲を戦にいち早く取り入れ、鉄砲隊を編成。
さらに城下町を繁栄させるため、自由に商売や取引ができる楽市・楽座を開始。
日本で初めて城をエンターテインメント化したとも言われています。
安土城は滋賀県の琵琶湖に面した場所に1576年築城されました。
当時は大型の天守を持つ初めての城でした。
挨拶をしに来た家臣たちには、城を案内して「お金をよこせ!」と1人100文(現在の価値で約1万円)を徴収していたとも言われているそうです。
お盆の時期には城下の家々に灯篭をともすのをやめさせ、安土城だけに灯篭を飾り宣教師たちを目で楽しませたという逸話も。
やはり一番人気の武将だけあって、魅力ある存在ですね。
まとめ
戦国武将ベスト10をまとめました。
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